用日语表达“日本名媛”的意思



 セレブとは、名士。有名人。女性誌などでは、美しく優雅で知的な女性を意味することが多い。

Celeb是指名流、名媛。女性杂志上多指美丽优雅的智慧女性。

セレブは、「celebrity(セレブリティ)」の略。セレブリティとは、著名人や有名人のことである。略された「セレブ」や「セレブ御用達」のような表現は1990年末頃から見られ、海外の有名女優やスーパーモデルを「セレブ」、それらが身に着けるアイテムを「セレブ御用達」と言った。

Celeb是“celebrity”的省略形式。Celebrity是指著名人士、名人。省略形式“celeb”及“celeb御用”等表达方式出现于上世纪90年代末,国外的著名女演员及名模叫“celeb”,她们身上穿戴的东西叫“celeb御用”。

セレブの意味が曖昧なまま広まったため、単にお金持ちになることやブランド品を身につけることも「セレブになる」などと表現されるようになった。

Celeb在流传过程中意义含糊,导致单纯的有钱人或穿戴名牌都可以用“成为celeb”来表示。

更にその意味解釈が拡大し続け、個々の持つ抽象的なイメージ表現として用いられるようになったため、セレブの定義は無いに等しくなった。

对其意义的解释还在不断扩大,因为用于表达各种不同的抽象印象,所以celeb等同于没有定义
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 セレブとは、名士。有名人。女性誌などでは、美しく優雅で知的な女性を意味することが多い。

Celeb是指名流、名媛。女性杂志上多指美丽优雅的智慧女性。

セレブは、「celebrity(セレブリティ)」の略。セレブリティとは、著名人や有名人のことである。略された「セレブ」や「セレブ御用達」のような表現は1990年末頃から見られ、海外の有名女優やスーパーモデルを「セレブ」、それらが身に着けるアイテムを「セレブ御用達」と言った。

Celeb是“celebrity”的省略形式。Celebrity是指著名人士、名人。省略形式“celeb”及“celeb御用”等表达方式出现于上世纪90年代末,国外的著名女演员及名模叫“celeb”,她们身上穿戴的东西叫“celeb御用”。

セレブの意味が曖昧なまま広まったため、単にお金持ちになることやブランド品を身につけることも「セレブになる」などと表現されるようになった。

Celeb在流传过程中意义含糊,导致单纯的有钱人或穿戴名牌都可以用“成为celeb”来表示。

更にその意味解釈が拡大し続け、個々の持つ抽象的なイメージ表現として用いられるようになったため、セレブの定義は無いに等しくなった。

对其意义的解释还在不断扩大,因为用于表达各种不同的抽象印象,所以celeb等同于没有定义 收起阅读 »

しばく、どつく、いてまう的异同



しばく、どつく、いてまう――。いずれも関西弁で「暴力を振るうこと」を表す言葉だ。面と向かって浴びせられる機会はそう多くないだろうが、誰しも1度は耳にしたことがあるに違いない。赤井英和さんが主演をつとめた映画「どついたるねん」や、関西出身のお笑い芸人がツッコミとしてよく使う「しばく」など、その使用例は枚挙にいとまがない。

しばく、どつく、いてまう。这三个都是关西方言中表达“使用暴力”的词汇。可能当面听到别人用的机会不多,但是应该谁都至少听到过一次。赤井英和主演的电影《不要口出狂言》、关西出身的搞笑艺人经常用“しばく”来吐槽等等,使用这些词的例子数不胜数。


けれども、それぞれの言葉が持つ微妙なニュアンスを理解することは難しい。「広辞苑」と「大阪ことば辞典」(牧村史陽、講談社文芸文庫)の記述を見ても、

但是,这些词汇各自虽有细微的不同,但从理解上来讲比较困难。即使是看《广辞苑》和《大阪词汇词典》(牧村史阳、讲谈社文艺文库)中的描述,

「しばく」...鞭や細い棒で強く叩くこと。
「どつく」...殴る。こづきまわす。
「いてまう」...やってしまう。(広辞苑には項目なし)

としか書かれておらず、その使い分けや強弱については言及されていない。

「しばく」用鞭子或者细棒狠狠地打。
「どつく」殴打。连推带搡。
「いてまう」杀了你。(广辞苑上没有这个词汇解释)

也只是写了意思,关于如何区分使用和程度的强弱没有涉及。

どことなく、「しばく<どつく」という関係性は窺えるが、関西人の使用感とは開きがあってもおかしくない。また、「や(殺)ってしまう」を意味する「いてまう」もかなり強い言葉に思えるが、より直接的に暴力を意味する「しばく」や「どつく」も捨てがたい。

不知为什么,总感觉是しばく程度要弱于どつく。但是关西人在使用的时候也还是有差异的。而且,意思是“杀了你”的“いてまう”是语气极其强烈的词汇,但是意味更直接暴力的“しばく”和“どつく”也不能说语气不强烈。

そこで、読者の皆様に聞いてみたい。
那么就问问各位读者的意见。

しばく・どつく・いてまう...、一番「キツい」言葉はどれ?
你觉得しばく、どつく、いてまう,最强烈的词汇是哪个?
 
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しばく、どつく、いてまう――。いずれも関西弁で「暴力を振るうこと」を表す言葉だ。面と向かって浴びせられる機会はそう多くないだろうが、誰しも1度は耳にしたことがあるに違いない。赤井英和さんが主演をつとめた映画「どついたるねん」や、関西出身のお笑い芸人がツッコミとしてよく使う「しばく」など、その使用例は枚挙にいとまがない。

しばく、どつく、いてまう。这三个都是关西方言中表达“使用暴力”的词汇。可能当面听到别人用的机会不多,但是应该谁都至少听到过一次。赤井英和主演的电影《不要口出狂言》、关西出身的搞笑艺人经常用“しばく”来吐槽等等,使用这些词的例子数不胜数。


けれども、それぞれの言葉が持つ微妙なニュアンスを理解することは難しい。「広辞苑」と「大阪ことば辞典」(牧村史陽、講談社文芸文庫)の記述を見ても、

但是,这些词汇各自虽有细微的不同,但从理解上来讲比较困难。即使是看《广辞苑》和《大阪词汇词典》(牧村史阳、讲谈社文艺文库)中的描述,

「しばく」...鞭や細い棒で強く叩くこと。
「どつく」...殴る。こづきまわす。
「いてまう」...やってしまう。(広辞苑には項目なし)

としか書かれておらず、その使い分けや強弱については言及されていない。

「しばく」用鞭子或者细棒狠狠地打。
「どつく」殴打。连推带搡。
「いてまう」杀了你。(广辞苑上没有这个词汇解释)

也只是写了意思,关于如何区分使用和程度的强弱没有涉及。

どことなく、「しばく<どつく」という関係性は窺えるが、関西人の使用感とは開きがあってもおかしくない。また、「や(殺)ってしまう」を意味する「いてまう」もかなり強い言葉に思えるが、より直接的に暴力を意味する「しばく」や「どつく」も捨てがたい。

不知为什么,总感觉是しばく程度要弱于どつく。但是关西人在使用的时候也还是有差异的。而且,意思是“杀了你”的“いてまう”是语气极其强烈的词汇,但是意味更直接暴力的“しばく”和“どつく”也不能说语气不强烈。

そこで、読者の皆様に聞いてみたい。
那么就问问各位读者的意见。

しばく・どつく・いてまう...、一番「キツい」言葉はどれ?
你觉得しばく、どつく、いてまう,最强烈的词汇是哪个?
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日本文学作品赏析《山の雪》



 わたしは雪が大好きで、雪がふってくるとおもてにとび出し、あたまから雪を白くかぶるのがおもしろくてたまらない。

わたしは日本の北の方、岩手県の山の中にすんでいるので、十一月ごろからそろそろ雪のふるのを見ることができ、十二月末にはもういちめんにまっしろになったけしきをまいにち見る。このへんでは、平均一メートルくらいしかつもらないけれども、小屋の北がわでは屋根までとどき、地めんのくぼみなどでは人間の胸くらいまでつもる。

わたしの小屋は村の人たちのすんでいるところから四百メートルほど山の方にはなれていて、まわりに一けんも家はなく、林や野はらや、少しばかりの畑などがあるだけで、雪がつもるとどちらを見てもまっしろな雪ばかりになり、人っこひとり見えない。むろん人のこえもきこえず、あるく音もきこえない。小屋の中にすわっていると、雪のふるのは雨のように音をたてないから、世界じゅうがしずかにしんとしてしまって、つんぼになったような気がするくらいだが、いろりでもえる薪がときどきぱちぱちいったり、やかんの湯のわく音がかすかにきこえてくる。そういう日が三ヶ月もつづく。

一メートルくらいつもった雪はあるきにくいから人も小屋にたずねてこない。あけてもくれてもひとりでいろりに火をもしながら、食事をしたり、本をよんだり、仕事をしたりしているが、そんなにながくひとりでいるとなんだか人にあいたくなる。人でなくてもいいから何か生きているものにあいたくなる。鳥でもけだものでもいいからくればいいとおもう。

そういう時にわたしをよろこばせるのは山のキツツキだ。キツツキは夏はこないが、秋のころから冬にかけてこのへんにすんでいてときどき小屋をつつきにくる。小屋のそとの柱や、棒ぐいや、つんである薪などをつついて中にいる虫をたべるらしい。その音がなかなか大きく、こつこつこつこつとせっかちにきこえる。まるでお客がノックするような感じで、おもわず返事がしたくなる。つつく場所によってとんとんとんとんともきこえ、しばらくすると大きな羽音をさせて又べつの柱にゆく。虫がいましたかときいてみようとしているうちに、キョッというような小さな鳴きごえを出してとんでいってしまう。小屋の前にある栗の木のみきをしきりにたたいているのを見ると、頭のすこし赤いアオゲラというキツツキや、白いぶちが黒い羽についていて腹の赤いアカゲラというのが多いようだ。キツツキのほかには何の小鳥か、朝はやくや、夕方うすぐらくなるころ、のきしたにつるしてあるいろいろの青ものの実や、草の実をついばみにくる小鳥がいる。朝まだねている時、障子のそとでとびまわるその羽の音が、まるで枕もとでとんでいるように近くきこえる。なんだかかわゆらしい。わたしは小鳥におこされて、目をこすりながらおきあがる。キジやヤマドリは秋には多く見かけるが雪がふるとあまりこない。遠くの沼にはカモがおりて鳴きごえだけがよくきこえる。

生きものといえば、夜になるとネズミがくる。ジネズミというのか、ハツカネズミか、ふつうのイエネズミよりも小さくて、人をおそれないネズミがはるばる雪の上を遠くからかよってくる。わたしの坐っているまわりをはしりながら、たたみにこぼれているものをひろってたべる。紙につつんでわきにおいてあるパンをたべようとして紙をくわえてひっぱる。わたしが手でたたみをたたくとびっくりしたような顔をして、とんぼがえりをして又ひっぱる。こんなに人なつこいと、アンツウでころす気にもなれない。このネズミは朝はどこかへかえっていって夜だけくる。

山のけものは多く夜の間に出てあるく。朝になってみると、いちめんの白い雪の上にたくさんその足あとがのこっている。いちばん多いのはヤマウサギの足あとで、これはだれにでもすぐわかる。いなかにすんでいた人は知っているだろうが、ウサギの足あとは、ほかのけもののとちがって、おもしろい形をしている。ちょうどローマ字のTのような形で、前の方によこに二つならんで大きな足あとがあり、そのうしろに、たてに二つの小さな足あとがある。うしろにあるたての小さい二つがウサギの前あしで、前の方にある大きいよこならびの二つがウサギの後あしである。ウサギの後あしは前あしよりも大きく、あるく時、前あしをついて、ぴょんととぶと大きな後あしが、前あしよりも前の方へ出るのである。このおもしろい足あとが雪の上に曲線をかいてどこまでもつづく。その線がいく本もあちらにもこちらにもある。小屋のそとの井戸のへんまできていることもある。井戸のあたりにおいた青ものや、くだものをたべにきたものと見える。

そのウサギをとりにキツネがくる。キツネは小屋のうしろの山の中にすんでいて、夜になるとこのへんまで出てくる。キツネの足あとはイヌのとはちがう。イヌのは足あとが二列にならんでつづいているが、キツネのは一列につづいている。そしてうしろの方へ雪がけってある。つまり女の人がハイヒールのくつでうまくあるくように、一直線上をあるく。四本のあしだから、なかなかむずかしいだろうとおもうが、うまい。キツネはおしゃれだなあとおもう。じっさい夕日をあびてあるいているところを見ると、毛が金いろに光って、尾をながくなびかせ、腹の方は白いように見えてきれいである。いちど鳥のようなものをくわえて小屋のまえの畑をあるいていったのを見たが、キツネがあるくと、カラスがいればさわいで鳴くからじきわかる。キツネの口はなかなか力があって、この秋、ある家の山羊が死んだところ、夜の間にキツネがそれをくわえて持っていってしまったと、その家の人がはなしていた。

ウサギや、キツネのほかに、イタチの足あと、ネズミの足あと、ネコの足あと、みんなちがう。ネズミの足あとなどは、まるでゆうびん切手のミシンの線のようにきれいにこまかく、てんてんてんてんとつづいて、さいごに小屋のえんの下のところへきている。これは二列になっていて、雪がうしろへけってない。イタチのも二列。

おもしろいのは人間の足あとで、ゴム靴でも、地下足袋じかたびでも、わらぐつでも、あるき方がひとりひとりちがうので、足あとをみると誰があるいたかたいていわかる。大またの人、小またの人、よたよたとあるく人、しゃんしゃんとあるく人、前のめりの人、そっている人、みなわかる。わたしの靴は十二文という大きさなので、これは村でもほかにないからすぐわかる。ゴム靴のうらのもようでもわかる。あるき方のうまい人や、まずい人があるが、雪の中では小またにこまかくあるく方がくたびれないといわれている。両足をよこにひらいてあるくのがいちばんくたびれるようだ。靴のかかとをまげる人のもくたびれそうだ。これはからだのまがっている人、内ぞうのどこかわるい人のだ。いちど、あまり大きな足あとがつづいているので、クマかと思っておどろいたら、「がんじき」というものをはいてあるいたあとだった。これは足が深く雪にもぐらないように、靴につけてはく道具である。「つまご」という大きなわらぐつも同じ役目をする。あまり深くてやわらかい雪の上は、立つと足がもぐるので、立ってあるかずに、雪の上をおよぐといいといってくれた人があるが、わたしにはできない。どうやっておよぐのかわからない。

わたしは雪の中をあるくのが好きだが、あるきながら、いろいろの光線で雪を見るとうつくしい。足がふかくもぐるからあるきにくく、くたびれるので、ときどき雪の中へ腰をうずめてやすむ。眼の前にどこまでもつづく雪の平面を見ると、雪が五色か七色にひかっている時がある。うしろから日光がさすと、きらきらして無数の雪のけっしょうがみな光線をはねかえし、スペクトルというもののようになる。虹いろにこまかく光るから実にきれいだ。野はらをひろく平らにうずめた雪にも、ちょうど沙漠のすなにできるようなさざなみができて、それがほんとの波のように見えるが、光線のうらおもてで、色がちがう。くらい方は青びかりがするし、あかるい方はうすいだいだい色にひかり、雪は白いものとばかり思っていると、こんなにいろいろ色があるのでびっくりする。

いちばんきれいなのは夜の雪である。夜でも雪はあかるいから、ほのぼのと何かが見える。そしていちめんに白くけむったようになってけしきが昼間とはたいへんちがってくる。ひろびろと奥ふかくみえて、まるでお伽話とぎばなしの世界のようになる。きれいはきれいだが夜の雪みちはあるくとあぶない。眼の前が光って、どこも同じように見えて方角がわからなくなる。わたしも小屋の近くの雪のはらで道にまよったことがある。まいにちあるいている道でも、どこかちがったところのようにみえ、あるいているうちにへんなところへいってしまった。やっと気がついてひきかえして、さんざん小屋をさがしてかえってきた。

しずかな天気の時でもこんなだから、吹雪の夜などにはそとに出られない。昼間でも風がつよいと雪をまきあげて二三間さきも見えなくなる。まるで船がガスにまかれたようになってあるけないし、風がふきつけると息もできなくなる。わずか二三百メートルのところでもそうなんすることがあるわけだ。ふぶきの夜は小屋の中にとじこもって、いろりに火をたいて、風の音をきいている。風の音はまるで海の大波のように小屋の屋根の上をのりこして向うの野はらにぶつかる。うしろの山の遠くから風のくるのがきこえてきて、それの近づく様子は実におそろしいものである。それでもわたしの小屋はうしろに小さな山があるので風がじかにあたらないから助かっている。山がなかったら冬のつよい西風の吹雪にふきとばされてしまうだろう。

雪が屋根の上にあつくつもると重たくなり、そのままにしておくと、春が近づいて雨がふった時、水をふくんでますます重くなって小屋がつぶれてしまう。それで一二度は雪おろしをする。大ていクリスマスの後あたりに一度やる。屋根へ上って平たいシャベルで雪をおろすと、窓の前に雪の小山ができる。わたしはいつも新年には国旗を立てるが、四角な紙にポスターカラーで赤いまんまるをかいて、それを棒のさきにのりではり、窓の前の雪の小山にその棒をさす。まっ白な雪の小山の上の赤い日の丸は実にきれいで、さわやかだ。空が青くはれているとなおさらうつくしい。
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 わたしは雪が大好きで、雪がふってくるとおもてにとび出し、あたまから雪を白くかぶるのがおもしろくてたまらない。

わたしは日本の北の方、岩手県の山の中にすんでいるので、十一月ごろからそろそろ雪のふるのを見ることができ、十二月末にはもういちめんにまっしろになったけしきをまいにち見る。このへんでは、平均一メートルくらいしかつもらないけれども、小屋の北がわでは屋根までとどき、地めんのくぼみなどでは人間の胸くらいまでつもる。

わたしの小屋は村の人たちのすんでいるところから四百メートルほど山の方にはなれていて、まわりに一けんも家はなく、林や野はらや、少しばかりの畑などがあるだけで、雪がつもるとどちらを見てもまっしろな雪ばかりになり、人っこひとり見えない。むろん人のこえもきこえず、あるく音もきこえない。小屋の中にすわっていると、雪のふるのは雨のように音をたてないから、世界じゅうがしずかにしんとしてしまって、つんぼになったような気がするくらいだが、いろりでもえる薪がときどきぱちぱちいったり、やかんの湯のわく音がかすかにきこえてくる。そういう日が三ヶ月もつづく。

一メートルくらいつもった雪はあるきにくいから人も小屋にたずねてこない。あけてもくれてもひとりでいろりに火をもしながら、食事をしたり、本をよんだり、仕事をしたりしているが、そんなにながくひとりでいるとなんだか人にあいたくなる。人でなくてもいいから何か生きているものにあいたくなる。鳥でもけだものでもいいからくればいいとおもう。

そういう時にわたしをよろこばせるのは山のキツツキだ。キツツキは夏はこないが、秋のころから冬にかけてこのへんにすんでいてときどき小屋をつつきにくる。小屋のそとの柱や、棒ぐいや、つんである薪などをつついて中にいる虫をたべるらしい。その音がなかなか大きく、こつこつこつこつとせっかちにきこえる。まるでお客がノックするような感じで、おもわず返事がしたくなる。つつく場所によってとんとんとんとんともきこえ、しばらくすると大きな羽音をさせて又べつの柱にゆく。虫がいましたかときいてみようとしているうちに、キョッというような小さな鳴きごえを出してとんでいってしまう。小屋の前にある栗の木のみきをしきりにたたいているのを見ると、頭のすこし赤いアオゲラというキツツキや、白いぶちが黒い羽についていて腹の赤いアカゲラというのが多いようだ。キツツキのほかには何の小鳥か、朝はやくや、夕方うすぐらくなるころ、のきしたにつるしてあるいろいろの青ものの実や、草の実をついばみにくる小鳥がいる。朝まだねている時、障子のそとでとびまわるその羽の音が、まるで枕もとでとんでいるように近くきこえる。なんだかかわゆらしい。わたしは小鳥におこされて、目をこすりながらおきあがる。キジやヤマドリは秋には多く見かけるが雪がふるとあまりこない。遠くの沼にはカモがおりて鳴きごえだけがよくきこえる。

生きものといえば、夜になるとネズミがくる。ジネズミというのか、ハツカネズミか、ふつうのイエネズミよりも小さくて、人をおそれないネズミがはるばる雪の上を遠くからかよってくる。わたしの坐っているまわりをはしりながら、たたみにこぼれているものをひろってたべる。紙につつんでわきにおいてあるパンをたべようとして紙をくわえてひっぱる。わたしが手でたたみをたたくとびっくりしたような顔をして、とんぼがえりをして又ひっぱる。こんなに人なつこいと、アンツウでころす気にもなれない。このネズミは朝はどこかへかえっていって夜だけくる。

山のけものは多く夜の間に出てあるく。朝になってみると、いちめんの白い雪の上にたくさんその足あとがのこっている。いちばん多いのはヤマウサギの足あとで、これはだれにでもすぐわかる。いなかにすんでいた人は知っているだろうが、ウサギの足あとは、ほかのけもののとちがって、おもしろい形をしている。ちょうどローマ字のTのような形で、前の方によこに二つならんで大きな足あとがあり、そのうしろに、たてに二つの小さな足あとがある。うしろにあるたての小さい二つがウサギの前あしで、前の方にある大きいよこならびの二つがウサギの後あしである。ウサギの後あしは前あしよりも大きく、あるく時、前あしをついて、ぴょんととぶと大きな後あしが、前あしよりも前の方へ出るのである。このおもしろい足あとが雪の上に曲線をかいてどこまでもつづく。その線がいく本もあちらにもこちらにもある。小屋のそとの井戸のへんまできていることもある。井戸のあたりにおいた青ものや、くだものをたべにきたものと見える。

そのウサギをとりにキツネがくる。キツネは小屋のうしろの山の中にすんでいて、夜になるとこのへんまで出てくる。キツネの足あとはイヌのとはちがう。イヌのは足あとが二列にならんでつづいているが、キツネのは一列につづいている。そしてうしろの方へ雪がけってある。つまり女の人がハイヒールのくつでうまくあるくように、一直線上をあるく。四本のあしだから、なかなかむずかしいだろうとおもうが、うまい。キツネはおしゃれだなあとおもう。じっさい夕日をあびてあるいているところを見ると、毛が金いろに光って、尾をながくなびかせ、腹の方は白いように見えてきれいである。いちど鳥のようなものをくわえて小屋のまえの畑をあるいていったのを見たが、キツネがあるくと、カラスがいればさわいで鳴くからじきわかる。キツネの口はなかなか力があって、この秋、ある家の山羊が死んだところ、夜の間にキツネがそれをくわえて持っていってしまったと、その家の人がはなしていた。

ウサギや、キツネのほかに、イタチの足あと、ネズミの足あと、ネコの足あと、みんなちがう。ネズミの足あとなどは、まるでゆうびん切手のミシンの線のようにきれいにこまかく、てんてんてんてんとつづいて、さいごに小屋のえんの下のところへきている。これは二列になっていて、雪がうしろへけってない。イタチのも二列。

おもしろいのは人間の足あとで、ゴム靴でも、地下足袋じかたびでも、わらぐつでも、あるき方がひとりひとりちがうので、足あとをみると誰があるいたかたいていわかる。大またの人、小またの人、よたよたとあるく人、しゃんしゃんとあるく人、前のめりの人、そっている人、みなわかる。わたしの靴は十二文という大きさなので、これは村でもほかにないからすぐわかる。ゴム靴のうらのもようでもわかる。あるき方のうまい人や、まずい人があるが、雪の中では小またにこまかくあるく方がくたびれないといわれている。両足をよこにひらいてあるくのがいちばんくたびれるようだ。靴のかかとをまげる人のもくたびれそうだ。これはからだのまがっている人、内ぞうのどこかわるい人のだ。いちど、あまり大きな足あとがつづいているので、クマかと思っておどろいたら、「がんじき」というものをはいてあるいたあとだった。これは足が深く雪にもぐらないように、靴につけてはく道具である。「つまご」という大きなわらぐつも同じ役目をする。あまり深くてやわらかい雪の上は、立つと足がもぐるので、立ってあるかずに、雪の上をおよぐといいといってくれた人があるが、わたしにはできない。どうやっておよぐのかわからない。

わたしは雪の中をあるくのが好きだが、あるきながら、いろいろの光線で雪を見るとうつくしい。足がふかくもぐるからあるきにくく、くたびれるので、ときどき雪の中へ腰をうずめてやすむ。眼の前にどこまでもつづく雪の平面を見ると、雪が五色か七色にひかっている時がある。うしろから日光がさすと、きらきらして無数の雪のけっしょうがみな光線をはねかえし、スペクトルというもののようになる。虹いろにこまかく光るから実にきれいだ。野はらをひろく平らにうずめた雪にも、ちょうど沙漠のすなにできるようなさざなみができて、それがほんとの波のように見えるが、光線のうらおもてで、色がちがう。くらい方は青びかりがするし、あかるい方はうすいだいだい色にひかり、雪は白いものとばかり思っていると、こんなにいろいろ色があるのでびっくりする。

いちばんきれいなのは夜の雪である。夜でも雪はあかるいから、ほのぼのと何かが見える。そしていちめんに白くけむったようになってけしきが昼間とはたいへんちがってくる。ひろびろと奥ふかくみえて、まるでお伽話とぎばなしの世界のようになる。きれいはきれいだが夜の雪みちはあるくとあぶない。眼の前が光って、どこも同じように見えて方角がわからなくなる。わたしも小屋の近くの雪のはらで道にまよったことがある。まいにちあるいている道でも、どこかちがったところのようにみえ、あるいているうちにへんなところへいってしまった。やっと気がついてひきかえして、さんざん小屋をさがしてかえってきた。

しずかな天気の時でもこんなだから、吹雪の夜などにはそとに出られない。昼間でも風がつよいと雪をまきあげて二三間さきも見えなくなる。まるで船がガスにまかれたようになってあるけないし、風がふきつけると息もできなくなる。わずか二三百メートルのところでもそうなんすることがあるわけだ。ふぶきの夜は小屋の中にとじこもって、いろりに火をたいて、風の音をきいている。風の音はまるで海の大波のように小屋の屋根の上をのりこして向うの野はらにぶつかる。うしろの山の遠くから風のくるのがきこえてきて、それの近づく様子は実におそろしいものである。それでもわたしの小屋はうしろに小さな山があるので風がじかにあたらないから助かっている。山がなかったら冬のつよい西風の吹雪にふきとばされてしまうだろう。

雪が屋根の上にあつくつもると重たくなり、そのままにしておくと、春が近づいて雨がふった時、水をふくんでますます重くなって小屋がつぶれてしまう。それで一二度は雪おろしをする。大ていクリスマスの後あたりに一度やる。屋根へ上って平たいシャベルで雪をおろすと、窓の前に雪の小山ができる。わたしはいつも新年には国旗を立てるが、四角な紙にポスターカラーで赤いまんまるをかいて、それを棒のさきにのりではり、窓の前の雪の小山にその棒をさす。まっ白な雪の小山の上の赤い日の丸は実にきれいで、さわやかだ。空が青くはれているとなおさらうつくしい。 收起阅读 »

与「雪」相关的惯用语


 雪と墨(ゆき と すみ)
――二つの物が正反対であること、また、はなはだしく相違していることのたとえ。月とすっぽん。
――黑白分明,完全不同



雪に白鷺(ゆき に しらさぎ)
――色合いが互いに似て見分け難いこと、また目立たないことのたとえ。
――难分曲直,难以分辨



雪は豊年の瑞(ゆき は ほうねん の しるし)
――雪が多く降るのは豊年の前兆であるということ。「雪は五穀の精」とも。
――瑞雪兆丰年



雪を欺く(ゆき を あざむく)
――非常に白いさまにいう。
――形容非常白,胜过白雪
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 雪と墨(ゆき と すみ)
――二つの物が正反対であること、また、はなはだしく相違していることのたとえ。月とすっぽん。
――黑白分明,完全不同



雪に白鷺(ゆき に しらさぎ)
――色合いが互いに似て見分け難いこと、また目立たないことのたとえ。
――难分曲直,难以分辨



雪は豊年の瑞(ゆき は ほうねん の しるし)
――雪が多く降るのは豊年の前兆であるということ。「雪は五穀の精」とも。
――瑞雪兆丰年



雪を欺く(ゆき を あざむく)
――非常に白いさまにいう。
――形容非常白,胜过白雪 收起阅读 »

与狗相关的惯用语




犬に関することわざって意外と多いんです!やはり昔から犬と人間は共存してきたからでしょうか?日本での犬についてのことわざをとりあげてみました!日本のことわざは多いのでほんの一部ですが、意外と知らないことわざもありました!では、紹介させていただきます。
关于狗的谚语意外的有很多!果然这是因为狗从以前就和人类一同生存过来的原因吧?这次准备了日本关于狗的谚语!因为日本的谚语太多了不能一一例出,但这里应该有你意外不知道的谚语!那么,来看介绍吧。

1、犬も歩けば棒に当たる

①何かしようとするとよく災いに会うものだ
打算做什么的时候会经常碰到意想不到的灾难。

②無目的で出歩くと,時には思わぬ幸運に出会うものだ
无目的的在外边走走会碰上意想不到的幸运。

例句:

見物に行って、混雑の中で財布をすられた。犬も歩けば棒に当たるんだよ。
去看热闹,却在人群中被人偷走了钱包,真是意想不到的灾难。

2、犬が西向きゃ尾(お)は東

犬が西向きゃ尾は東とは、犬が西の方向を見る位置にいればその尾は東の方向を見る、当たり前のことの例え。
狗向西边看,它的尾巴就会摆向东边。比喻理所当然的事。



例句:

人として犬が西向きゃ尾は東のような常識を教えて下さい。
请教我做作为人理所当然的常识。

3、犬は三日飼えば三年恩を忘れぬ 。

犬は三日飼っただけでも、三年間その恩を忘れない。 まして人は恩知らずであってはいけない、という意味。 
意思是说只喂了狗三天的食物,狗却会在三年里不忘其恩。何况是人,更不能忘恩负义。
例句:

犬は三日飼えば三年恩も忘れないで、君はどうしてそんなに恩知らないでしょうか。
养狗三天,它都记恩三年,你怎么就这么不知恩啊。

4、狡兎死して走狗烹らる(こうとししてそうくにらる)

狡兎死して走狗烹らるとは、必要なときは重宝がられるが、用がなくなればあっさり捨てられることのたとえ。
狡兔死走狗烹,比喻需要的时候把你当块宝,没用的时候马上把你抛弃掉。

中国の名作、『史記・越世家』による
出自中国的《史记·越王勾践世家》

例句:

狡兎死して走狗烹らるで、業務提携して方針が変わった途端、重宝がられていた人材がリストラにあった。
狡兔死走狗烹,业务提携的方针一旦改变,曾被重视的人才就面临着被解雇的危机。



5、犬の遠吠(ぼ)え

臆病な人が陰で威張ったり、陰口をいう事。
用来比喻胆小的人只会在背地里张狂或说坏话。

例句:

彼らが言っていることなんて放っておけばいい。あれは犬の遠吠えと同じだ
不要理他们讲的话,那只是败犬的远吠。
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犬に関することわざって意外と多いんです!やはり昔から犬と人間は共存してきたからでしょうか?日本での犬についてのことわざをとりあげてみました!日本のことわざは多いのでほんの一部ですが、意外と知らないことわざもありました!では、紹介させていただきます。
关于狗的谚语意外的有很多!果然这是因为狗从以前就和人类一同生存过来的原因吧?这次准备了日本关于狗的谚语!因为日本的谚语太多了不能一一例出,但这里应该有你意外不知道的谚语!那么,来看介绍吧。

1、犬も歩けば棒に当たる

①何かしようとするとよく災いに会うものだ
打算做什么的时候会经常碰到意想不到的灾难。

②無目的で出歩くと,時には思わぬ幸運に出会うものだ
无目的的在外边走走会碰上意想不到的幸运。

例句:

見物に行って、混雑の中で財布をすられた。犬も歩けば棒に当たるんだよ。
去看热闹,却在人群中被人偷走了钱包,真是意想不到的灾难。

2、犬が西向きゃ尾(お)は東

犬が西向きゃ尾は東とは、犬が西の方向を見る位置にいればその尾は東の方向を見る、当たり前のことの例え。
狗向西边看,它的尾巴就会摆向东边。比喻理所当然的事。



例句:

人として犬が西向きゃ尾は東のような常識を教えて下さい。
请教我做作为人理所当然的常识。

3、犬は三日飼えば三年恩を忘れぬ 。

犬は三日飼っただけでも、三年間その恩を忘れない。 まして人は恩知らずであってはいけない、という意味。 
意思是说只喂了狗三天的食物,狗却会在三年里不忘其恩。何况是人,更不能忘恩负义。
例句:

犬は三日飼えば三年恩も忘れないで、君はどうしてそんなに恩知らないでしょうか。
养狗三天,它都记恩三年,你怎么就这么不知恩啊。

4、狡兎死して走狗烹らる(こうとししてそうくにらる)

狡兎死して走狗烹らるとは、必要なときは重宝がられるが、用がなくなればあっさり捨てられることのたとえ。
狡兔死走狗烹,比喻需要的时候把你当块宝,没用的时候马上把你抛弃掉。

中国の名作、『史記・越世家』による
出自中国的《史记·越王勾践世家》

例句:

狡兎死して走狗烹らるで、業務提携して方針が変わった途端、重宝がられていた人材がリストラにあった。
狡兔死走狗烹,业务提携的方针一旦改变,曾被重视的人才就面临着被解雇的危机。



5、犬の遠吠(ぼ)え

臆病な人が陰で威張ったり、陰口をいう事。
用来比喻胆小的人只会在背地里张狂或说坏话。

例句:

彼らが言っていることなんて放っておけばいい。あれは犬の遠吠えと同じだ
不要理他们讲的话,那只是败犬的远吠。 收起阅读 »

日语中“黄昏”说法的来源



 黄昏(たそがれ)が「誰そ彼」から発していることを指摘したのは柳田国男である。日が沈む前後の時間帯は、あたりが薄暗くなるので、人々はすれ違う時に、「誰そ彼」つまり「あなたは誰ですか」と言い合いながら、コミュニケーションを図った。そこから日没時を「たそがれどき」というようになり、それが「たそがれ」になったというのである。

根据柳田国男的观点,“黄昏(たそがれ)”一词来源于“誰そ彼”。在日落前后的这段时间,由于四周光线暗淡了下来,人们在路上擦身而过时,会彼此互道“誰そ彼(古代日语中,“彼”指代的是第二人称)”,也就是“あなたは誰ですか(您是谁)”,以此取得相互间的交流。由此日落时刻被称作“たそがれどき”,后来就演化成了“たそがれ”。

逢魔时



「かわたれ」というのも同じようなもので、「彼は誰」から転じた言い方である。また名古屋地方では、「うそうそ」という言い方があるそうだが、これも人の表情がはっきりしないさまを形容する言葉だという。

“かわたれ”也是一个相同的词,它是由“彼は誰”转变过来的说法。另外在名古屋地区还存在“うそうそ”这种说法,这也是一个形容人的面貌模糊不清的词语。

夕方を表す言葉としては、「ゆう」という言葉が古くからあった。「ゆうまぐれ」はこの「ゆう」と「まぐれ」の合成語であるが、「まぐれ」とは「紛れる」つまりものごとが不分明に見えるという意味である。だから「ゆうまぐれ」は「たそがれ」や「かわたれ」と同じように、日没時の物事がぼんやりとうつるさまを表した言葉だと言える。「ゆうぐれ」は、この「ゆうまぐれ」のなまった形だろう。

作为表示黄昏的词语,“ゆう”自古就已存在。“ゆうまぐれ”就是“ゆう”和“まぐれ”形成的合成词,“まぐれ”就有“紛れる(混淆不清)”,也即景致模糊不清的意思在里面。因此,“ゆうまぐれ”这个词就与“たそがれ”、“かわたれ”具备同样内涵那样,表现的是日落时分一切事物变得模模糊糊的景象。

「ゆうべ」は「ゆう」に「へ」(あたり)が結びついたものである。現代語における「夕方」と同じようなニュアンスの言葉である。

“ゆうべ”是“ゆう”加上“へ”后形成的词。在现代文中这个词与“夕方”具有同样的语感。
「あした」は「ゆうべ」に対立する概念の言葉で、夜があけた状態をさしていった。太古の日本人にとっては、一日の始まりは、現代のように明け方ではなく、夕方だったと主張したのは、やはり柳田国男だったと思うが、夕べを起点にすると、夜が明けた状態つまり「あした」は、後世の人にとっては次の日を意味した。このことから、「あした」が「翌日」と言う意味での「明日」に変化したのだろうと思われる。

“あした”一词表示与“ゆうべ”相对立的概念,指即将天亮的状态。柳田国男认为,对上古的日本人来说,一天的开始并非像现代那样是黎明,而是傍晚时分,既然用傍晚作为一天的起点,那么天亮的时候,即“あした(明天)”对后世的人而言就意味着第二天。如此一来,“あした”就变成了表达“翌日”意思的“明日”。

日が昇って薄明るくなった状態を「あけぼの」といった。「あけ」と「ほの」の合成語である。「あけ」とは「あかるい」、「ほの」とは「ほのぼの」の意味で、ほのぼのと明るい状態をさす。

日出时曙光朦胧的情景被称为“あけぼの”。这是“あけ”与“ほの”合成的词语。“あけ”即“あかるい”,“ほの”即“ぼのぼの”的意思,表现的是一种朦胧中带有光亮的情景。

「あけぼの」に近い言葉に「あかつき」というのがあった。これは「あかとき」がなまったもので、あかるくなったばかりの時間帯、を意味した。

与“あけぼの”相近的词语还有“あかつき”,它是由“あかとき”的讹音转变成的,指的是刚刚出现曙光的时间段。

「あけぼの」や「あかつき」に近い言葉に「しののめ」がある。これは「條の目」からきていると言語学者の堀井令以知氏はいう。太古の日本家屋には、明り取りの窓に、篠で編んだ條の目を使った。夜が明けると、この條の目から日の光が差しこんでくる。それで條の目が夜明けを指す言葉として使われるようになったわけだ。現代語では「東雲」と書くが、これは当て字である。万葉集では「小竹之目」とか「細竹目」とか表記されている。

同“あけぼの”与“あかつき”类似的词还有“ しののめ”。根据语言学家堀井今以知的说法,这个词来源于“條の目”一词。太古时的日本房屋里,透光的亮窗上使用由细竹编成的条状窗格。天一亮,曙光就会从这些窗格照射进房间。因此“條の目”这个词就被用来指代黎明了。在现代语中,它写作“東雲”,不过这是假借字,在《万叶集》里它也被标记为“小竹之目”或“细竹目”。
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 黄昏(たそがれ)が「誰そ彼」から発していることを指摘したのは柳田国男である。日が沈む前後の時間帯は、あたりが薄暗くなるので、人々はすれ違う時に、「誰そ彼」つまり「あなたは誰ですか」と言い合いながら、コミュニケーションを図った。そこから日没時を「たそがれどき」というようになり、それが「たそがれ」になったというのである。

根据柳田国男的观点,“黄昏(たそがれ)”一词来源于“誰そ彼”。在日落前后的这段时间,由于四周光线暗淡了下来,人们在路上擦身而过时,会彼此互道“誰そ彼(古代日语中,“彼”指代的是第二人称)”,也就是“あなたは誰ですか(您是谁)”,以此取得相互间的交流。由此日落时刻被称作“たそがれどき”,后来就演化成了“たそがれ”。

逢魔时



「かわたれ」というのも同じようなもので、「彼は誰」から転じた言い方である。また名古屋地方では、「うそうそ」という言い方があるそうだが、これも人の表情がはっきりしないさまを形容する言葉だという。

“かわたれ”也是一个相同的词,它是由“彼は誰”转变过来的说法。另外在名古屋地区还存在“うそうそ”这种说法,这也是一个形容人的面貌模糊不清的词语。

夕方を表す言葉としては、「ゆう」という言葉が古くからあった。「ゆうまぐれ」はこの「ゆう」と「まぐれ」の合成語であるが、「まぐれ」とは「紛れる」つまりものごとが不分明に見えるという意味である。だから「ゆうまぐれ」は「たそがれ」や「かわたれ」と同じように、日没時の物事がぼんやりとうつるさまを表した言葉だと言える。「ゆうぐれ」は、この「ゆうまぐれ」のなまった形だろう。

作为表示黄昏的词语,“ゆう”自古就已存在。“ゆうまぐれ”就是“ゆう”和“まぐれ”形成的合成词,“まぐれ”就有“紛れる(混淆不清)”,也即景致模糊不清的意思在里面。因此,“ゆうまぐれ”这个词就与“たそがれ”、“かわたれ”具备同样内涵那样,表现的是日落时分一切事物变得模模糊糊的景象。

「ゆうべ」は「ゆう」に「へ」(あたり)が結びついたものである。現代語における「夕方」と同じようなニュアンスの言葉である。

“ゆうべ”是“ゆう”加上“へ”后形成的词。在现代文中这个词与“夕方”具有同样的语感。
「あした」は「ゆうべ」に対立する概念の言葉で、夜があけた状態をさしていった。太古の日本人にとっては、一日の始まりは、現代のように明け方ではなく、夕方だったと主張したのは、やはり柳田国男だったと思うが、夕べを起点にすると、夜が明けた状態つまり「あした」は、後世の人にとっては次の日を意味した。このことから、「あした」が「翌日」と言う意味での「明日」に変化したのだろうと思われる。

“あした”一词表示与“ゆうべ”相对立的概念,指即将天亮的状态。柳田国男认为,对上古的日本人来说,一天的开始并非像现代那样是黎明,而是傍晚时分,既然用傍晚作为一天的起点,那么天亮的时候,即“あした(明天)”对后世的人而言就意味着第二天。如此一来,“あした”就变成了表达“翌日”意思的“明日”。

日が昇って薄明るくなった状態を「あけぼの」といった。「あけ」と「ほの」の合成語である。「あけ」とは「あかるい」、「ほの」とは「ほのぼの」の意味で、ほのぼのと明るい状態をさす。

日出时曙光朦胧的情景被称为“あけぼの”。这是“あけ”与“ほの”合成的词语。“あけ”即“あかるい”,“ほの”即“ぼのぼの”的意思,表现的是一种朦胧中带有光亮的情景。

「あけぼの」に近い言葉に「あかつき」というのがあった。これは「あかとき」がなまったもので、あかるくなったばかりの時間帯、を意味した。

与“あけぼの”相近的词语还有“あかつき”,它是由“あかとき”的讹音转变成的,指的是刚刚出现曙光的时间段。

「あけぼの」や「あかつき」に近い言葉に「しののめ」がある。これは「條の目」からきていると言語学者の堀井令以知氏はいう。太古の日本家屋には、明り取りの窓に、篠で編んだ條の目を使った。夜が明けると、この條の目から日の光が差しこんでくる。それで條の目が夜明けを指す言葉として使われるようになったわけだ。現代語では「東雲」と書くが、これは当て字である。万葉集では「小竹之目」とか「細竹目」とか表記されている。

同“あけぼの”与“あかつき”类似的词还有“ しののめ”。根据语言学家堀井今以知的说法,这个词来源于“條の目”一词。太古时的日本房屋里,透光的亮窗上使用由细竹编成的条状窗格。天一亮,曙光就会从这些窗格照射进房间。因此“條の目”这个词就被用来指代黎明了。在现代语中,它写作“東雲”,不过这是假借字,在《万叶集》里它也被标记为“小竹之目”或“细竹目”。 收起阅读 »

与鬼有关的日本谚语


日本的“鬼”有许多种,有的是给子孙带来祝福的祖灵,但大多数日本人心中,日本“鬼”一般都是冷酷无情,残害、屠杀人们的鬼怪。因而,在日本的惯用语里,带“鬼”字的,往往都是用“鬼”来比喻凶残、冷血的人物形象。接下来,就给大家介绍一些有趣的跟“鬼”有关的谚语给各位,看看这些你都认识吗?

1、鬼が笑う

現実性のないことをからかっていう語。
用来嘲笑一些不现实的事情的话语。

例句:

来年のことを言うと鬼が笑う。
空谈来年事,鬼都笑你痴。


2、鬼に金棒(かなぼう)

ただでさえ強い鬼に金棒を持たせる意から強いものがさらに強さを加えること。
没有武器的鬼已经足够强大了,还增添了金棒子,好似如虎添翼的意思。

例句:

君が一绪に来てくれれば、鬼に金棒で,もう何も怖くない。
你和我一起,我就如虎添翼,什么都觉得不可怕了。

3、鬼の目にも涙

冷酷無情な人間でも,時には情に感じて慈悲の心を起こすことのたとえ。
比喻即使是冷酷无情的人,也有感动、起慈悲心的时候。

例句:

鬼の目にも涙を流させてくれる映画はありますか?
有没有什么连无情的人都能感动得流眼泪的电影?

4、鬼の霍乱(かくらん)

非常に健康で、めったに病気をしない人が病気になること。
非常健康,很少生病的人也生病了。

例句:

お重が心持が悪いなんて、まるで鬼の霍乱だな。
心情沉重很不好,铁打的汉子也会病倒。



5、鬼の首を取ったよう

大変な功名・手柄を立てたかのように思って喜ぶさまのたとえ。
比喻像是立了大功般高兴的人。

例句:

鬼の首を取ったような喜びよう。
高兴得像立了大功一样。


6、鬼が住むか蛇(じや)が住むか

(建物の中や人の心の中などに)どんな恐ろしいものや恐ろしい考えがひそんでいるかわからない。
不知道(在建筑物中亦或是在人的心中)到底藏了什么恐怖的东西或可怕的想法。

例句:

鬼が住むか蛇が住むか、何故あんな凶悪な事件が、閑静な住宅街で起こったのだろう。
不知道到底有什么恐怖的东西在,为什么在这闲静的住宅街上会发生这么凶恶的事件呢?



7、鬼の居(い)ぬ間(ま)に洗濯

気兼ねする人やこわい人のいない間に,したいことをしたり,息ぬきしたりすること。
多心的人或可怕的人不在的时候,做想做的事,歇口气的意思。

例句:

あの子は母親が出かけると、すぐにゲームをやります。まさに鬼の居ぬ間に洗濯。
那孩子只要妈妈一出门,就立刻玩游戏。真是阎王不在,小鬼翻天。



8、鬼も十八番茶(ばんちや)も出花(でばな)

女の子はだれでも年頃になれば,それ相応にきれいに見え,魅力もそなわるの意。
女孩子无论是谁,到了一定的岁数,能看出与之年龄相对应的美,也具备相应的魅力的意思。

例句:

「お嬢さん、きれいになられましたねえ。」
「そうですか? まあ、鬼も十八番茶も出花なんですかねえ。」

“小姐,不知不觉变得漂亮了呢。”
“是吗?这个嘛,女大十八变吧?”
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日本的“鬼”有许多种,有的是给子孙带来祝福的祖灵,但大多数日本人心中,日本“鬼”一般都是冷酷无情,残害、屠杀人们的鬼怪。因而,在日本的惯用语里,带“鬼”字的,往往都是用“鬼”来比喻凶残、冷血的人物形象。接下来,就给大家介绍一些有趣的跟“鬼”有关的谚语给各位,看看这些你都认识吗?

1、鬼が笑う

現実性のないことをからかっていう語。
用来嘲笑一些不现实的事情的话语。

例句:

来年のことを言うと鬼が笑う。
空谈来年事,鬼都笑你痴。


2、鬼に金棒(かなぼう)

ただでさえ強い鬼に金棒を持たせる意から強いものがさらに強さを加えること。
没有武器的鬼已经足够强大了,还增添了金棒子,好似如虎添翼的意思。

例句:

君が一绪に来てくれれば、鬼に金棒で,もう何も怖くない。
你和我一起,我就如虎添翼,什么都觉得不可怕了。

3、鬼の目にも涙

冷酷無情な人間でも,時には情に感じて慈悲の心を起こすことのたとえ。
比喻即使是冷酷无情的人,也有感动、起慈悲心的时候。

例句:

鬼の目にも涙を流させてくれる映画はありますか?
有没有什么连无情的人都能感动得流眼泪的电影?

4、鬼の霍乱(かくらん)

非常に健康で、めったに病気をしない人が病気になること。
非常健康,很少生病的人也生病了。

例句:

お重が心持が悪いなんて、まるで鬼の霍乱だな。
心情沉重很不好,铁打的汉子也会病倒。



5、鬼の首を取ったよう

大変な功名・手柄を立てたかのように思って喜ぶさまのたとえ。
比喻像是立了大功般高兴的人。

例句:

鬼の首を取ったような喜びよう。
高兴得像立了大功一样。


6、鬼が住むか蛇(じや)が住むか

(建物の中や人の心の中などに)どんな恐ろしいものや恐ろしい考えがひそんでいるかわからない。
不知道(在建筑物中亦或是在人的心中)到底藏了什么恐怖的东西或可怕的想法。

例句:

鬼が住むか蛇が住むか、何故あんな凶悪な事件が、閑静な住宅街で起こったのだろう。
不知道到底有什么恐怖的东西在,为什么在这闲静的住宅街上会发生这么凶恶的事件呢?



7、鬼の居(い)ぬ間(ま)に洗濯

気兼ねする人やこわい人のいない間に,したいことをしたり,息ぬきしたりすること。
多心的人或可怕的人不在的时候,做想做的事,歇口气的意思。

例句:

あの子は母親が出かけると、すぐにゲームをやります。まさに鬼の居ぬ間に洗濯。
那孩子只要妈妈一出门,就立刻玩游戏。真是阎王不在,小鬼翻天。



8、鬼も十八番茶(ばんちや)も出花(でばな)

女の子はだれでも年頃になれば,それ相応にきれいに見え,魅力もそなわるの意。
女孩子无论是谁,到了一定的岁数,能看出与之年龄相对应的美,也具备相应的魅力的意思。

例句:

「お嬢さん、きれいになられましたねえ。」
「そうですか? まあ、鬼も十八番茶も出花なんですかねえ。」

“小姐,不知不觉变得漂亮了呢。”
“是吗?这个嘛,女大十八变吧?” 收起阅读 »

与狡猾狸猫相关的日本谚语




人間に化けてさまざまなイタズラをする…狸に対してこのような印象を持っている人もいると思います。そんな狸にまつわる「ことわざ」を紹介していきたいと思います。では、ご覧ください。
幻化成人型做许多恶作剧,这是许多人对狸猫的既定印象。这次,就给大家介绍与这样的狸猫相关的谚语。那么,各位请看看吧。


1、捕らぬ狸の皮算用

まだ入るかどうか分からない利益をあてにすること。手に入るかどうか分からないものをあてにして計画を立てること。
盘算着那些不知道能不能到手的利益。谋划着不知道能不能到手的东西。

由来:
由来:

猟師が狸を捕まえる前に、狸の毛皮をいくらで売ったら儲かるのかと考えることに由来しています。
源于猎人在抓捕狸猫之前,会盘算着狸猫的皮毛卖多少钱才有赚头。

使い方:
用法:
捕らぬ狸の皮算用するな!
不要打如意算盘!

2、狸寝入り

都合の悪いときなどに、わざと寝たふりをすること。
遇到不方便的时候,假装睡觉的意思。

由来
由来

この「ことわざ」は別の言葉で空寝ともいいます。もとは臆病な動物の狸がびっくりした際などに一瞬、気絶してしまい、眠ったようになることに由来しています。また、人をだますとされている狸が気絶している姿を人々は自分たちをだますための空寝と思い、「狸寝入り」と言うようになりました。
这句谚语的另外一种表达是“空寝”(装睡)。源自于胆小的狸猫被吓到的一瞬就会昏厥过去,像是睡着的样子。另外,据说还有人认为,公认常常骗人的狸猫,其晕倒的模样,其实是为了欺骗人们的假寐,所以才有这样的说法。

使い方
用法
彼は自分に都合の悪い話になると、すぐ狸寝入りするクセがあるので要注意です。
他一碰到对自己不利的话时,就立刻假装睡觉,要注意了。



3、狸が人に化かされる

だまそうとして反対にだまされること。甘く見た相手から、してやられること。
指原本想欺骗对方结果反而被骗了的意思。看起来不强的对手,反而被对方摆了一道。

由来
由来

昔から狸は人をだますと考えられていますが、たまには反対に人に狸がまんまとだまされることに由来しています。
源于从前人们认为狸猫常骗人,偶尔也有反过来,人把狸猫给骗了的情况。

使い方
用法
いつもの弱いチームを相手にサッカーをしたら、今日は狸が人に化かされてしまいました。
与一直很弱势的队伍踢了场足球,却输了比赛。

4、狐と狸の化かし合い

悪賢い者同士がお互いにだまし合うこと。
奸诈的坏人相互间尔虞我诈的意思。

由来
由来

この「ことわざ」は、狸にまつわる昔話に由来しているようですね。さまざまな説がありますが、その中の一つは狐が美人に、狸がおにぎりに化けました。狐は空腹に耐え切れず、おにぎりを食べようとして狸に負けたというものです。
这句谚语,据说是从与狸猫相关的故事传下来的。来源众说纷纭,其中有一种说法是,狐狸演化成美人,狸猫化成饭团。狐狸肚子饿得不得了,准备吃下饭团,结果输给了狸猫(PS:两只动物是在比赛谁乔装打扮比较厉害)。

使い方
用法

狐と狸の化かし合いは単なる時間のムダなので、やめましょう。
尔虞我诈不过是在浪费时间而已,停止吧。

5、同じ穴の狸

一見無関係のようでも実は同類・仲間であること。(多くの場合、悪者について言うときに使います)
初见之下像是毫无关系的样子,实际上是同类、伙伴。(多用于形容坏人的时候。)

由来
由来

穴を掘ることができない狸は穴掘りの上手なアナグマの古い巣穴を利用していたり、時には同居していたりすることもあることに由来しています。
源于不会挖洞的狸猫,利用挖洞能手獾的老巢穴,并有时同居在一起的事。

使い方
用法

彼のようにあんなことする人ではないと思っていたのに、あの人も結局同じ穴の狸でした。
还以为他不会是做那样事情的人,到头来竟是一丘之貉。
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人間に化けてさまざまなイタズラをする…狸に対してこのような印象を持っている人もいると思います。そんな狸にまつわる「ことわざ」を紹介していきたいと思います。では、ご覧ください。
幻化成人型做许多恶作剧,这是许多人对狸猫的既定印象。这次,就给大家介绍与这样的狸猫相关的谚语。那么,各位请看看吧。


1、捕らぬ狸の皮算用

まだ入るかどうか分からない利益をあてにすること。手に入るかどうか分からないものをあてにして計画を立てること。
盘算着那些不知道能不能到手的利益。谋划着不知道能不能到手的东西。

由来:
由来:

猟師が狸を捕まえる前に、狸の毛皮をいくらで売ったら儲かるのかと考えることに由来しています。
源于猎人在抓捕狸猫之前,会盘算着狸猫的皮毛卖多少钱才有赚头。

使い方:
用法:
捕らぬ狸の皮算用するな!
不要打如意算盘!

2、狸寝入り

都合の悪いときなどに、わざと寝たふりをすること。
遇到不方便的时候,假装睡觉的意思。

由来
由来

この「ことわざ」は別の言葉で空寝ともいいます。もとは臆病な動物の狸がびっくりした際などに一瞬、気絶してしまい、眠ったようになることに由来しています。また、人をだますとされている狸が気絶している姿を人々は自分たちをだますための空寝と思い、「狸寝入り」と言うようになりました。
这句谚语的另外一种表达是“空寝”(装睡)。源自于胆小的狸猫被吓到的一瞬就会昏厥过去,像是睡着的样子。另外,据说还有人认为,公认常常骗人的狸猫,其晕倒的模样,其实是为了欺骗人们的假寐,所以才有这样的说法。

使い方
用法
彼は自分に都合の悪い話になると、すぐ狸寝入りするクセがあるので要注意です。
他一碰到对自己不利的话时,就立刻假装睡觉,要注意了。



3、狸が人に化かされる

だまそうとして反対にだまされること。甘く見た相手から、してやられること。
指原本想欺骗对方结果反而被骗了的意思。看起来不强的对手,反而被对方摆了一道。

由来
由来

昔から狸は人をだますと考えられていますが、たまには反対に人に狸がまんまとだまされることに由来しています。
源于从前人们认为狸猫常骗人,偶尔也有反过来,人把狸猫给骗了的情况。

使い方
用法
いつもの弱いチームを相手にサッカーをしたら、今日は狸が人に化かされてしまいました。
与一直很弱势的队伍踢了场足球,却输了比赛。

4、狐と狸の化かし合い

悪賢い者同士がお互いにだまし合うこと。
奸诈的坏人相互间尔虞我诈的意思。

由来
由来

この「ことわざ」は、狸にまつわる昔話に由来しているようですね。さまざまな説がありますが、その中の一つは狐が美人に、狸がおにぎりに化けました。狐は空腹に耐え切れず、おにぎりを食べようとして狸に負けたというものです。
这句谚语,据说是从与狸猫相关的故事传下来的。来源众说纷纭,其中有一种说法是,狐狸演化成美人,狸猫化成饭团。狐狸肚子饿得不得了,准备吃下饭团,结果输给了狸猫(PS:两只动物是在比赛谁乔装打扮比较厉害)。

使い方
用法

狐と狸の化かし合いは単なる時間のムダなので、やめましょう。
尔虞我诈不过是在浪费时间而已,停止吧。

5、同じ穴の狸

一見無関係のようでも実は同類・仲間であること。(多くの場合、悪者について言うときに使います)
初见之下像是毫无关系的样子,实际上是同类、伙伴。(多用于形容坏人的时候。)

由来
由来

穴を掘ることができない狸は穴掘りの上手なアナグマの古い巣穴を利用していたり、時には同居していたりすることもあることに由来しています。
源于不会挖洞的狸猫,利用挖洞能手獾的老巢穴,并有时同居在一起的事。

使い方
用法

彼のようにあんなことする人ではないと思っていたのに、あの人も結局同じ穴の狸でした。
还以为他不会是做那样事情的人,到头来竟是一丘之貉。 收起阅读 »

国外听见“中国”会想到的9件事




NO.1 中国画
中国画は、中国特有の毛筆、水墨、顔料などを使って描かれ、特に「意境」(主観的な感情や理念を客観的な事実や景観に融合した表現)を重視する。シンプルな色とタッチだが、色彩豊かな油絵よりも、深みがある。
中国画是指用中国特有的毛笔、水墨、颜料等绘制而成的,非常注重“意境”(即将主观的情感与理念和客观的事实与景观融合起来表现)。朴素的颜色与笔触,与色彩丰富的油画相比,更有深度。



NO.2 青花瓷
さわやかで上品な青花磁には、多種多様な文字や図柄、落款が描かれる。
鲜明、典雅的青花瓷,描绘着多种多样的文字、图案,并附有落款。



NO.3 胡同(フートン)
北京に来る外国人が最も興味を示すのは、高層ビルでも広い道路でもなく、中国らしい雰囲気がただよう細い路地・胡同だ。北京の胡同の起源は、元(1271-1368年)の時代にまでさかのぼり、最も多い時には6000本以上あった。厳密に言うと、南北のやや広い道は「街」と呼ばれ、東西の細い道が「胡同」と呼ばれる。
来到北京的外籍人士,最感兴趣的并不是高楼大厦、宽阔马路,而是弥漫着中国特有气息的、曲径通幽的小胡同。北京胡同起源于元朝(1271-1368年),最多的时候有6000多条。严格来说,南北向稍微大一些的道路称为“街”,而东西向狭长的才是“胡同”。



NO.4 北京ダック
NO.4 北京烤鸭
北京ダックは、世界中で知られ、約600年の歴史を誇る。「世の中で最もおいしい料理」とも言われ、清朝(1644-1912年)には宮廷料理として採用された。
北京烤鸭世界闻名,大约有600年的历史。据说是“世界上最好吃的料理”,在清朝(1644-1912年)被作为宫廷料理。



NO.5 中国カンフー
NO.5 中国功夫
アクション俳優・李小龍(ブルース・リー)や成龍(ジャッキー・チェン)を通して、中国カンフーはアジアで人気となり、その人気はハリウッドにまで波及した。米国各地にも武術学校が数多くあり、中国カンフーを習う外国人も非常に多い。
功夫明星李小龙、成龙的大获成功,使得中国功夫在亚洲赢得了超高人气,甚至传到了好莱坞。美国各地开办了许多武术学校,来学习中国功夫的外国人也非常之多。



NO.6 故宫
北京の人気観光スポット・故宮は、いつでも多くの観光客でにぎわう。友人や家族と共に来る外国人は、故宮で、単なるアートではなく、中国古代建築士が吹きこんだ歴史を体験している。
北京的人气观光景点故宫,总是有许多游客光临,热闹非凡。与朋友、家人一起来华的外国人们,在故宫里体验的不仅仅是艺术的沉淀,更是中国古代建筑师们建立起来的历史宝藏。



NO.7 中国の伝統楽器
NO.7 中国的传统乐器
外国人にとって古筝や二胡、琵琶などは、中国の伝統楽器の代表だ。
对外国人来说,古筝、二胡、琵琶等,是中国传统乐器的代表。



NO.8 チャイナドレス
NO.8 旗袍
チャイナドレスの起源は満州族の女性の伝統衣装。1930年代に上海で流行した。その美しいラインと、オシャレなデザイン、独特の雰囲気は、上品でさわやかな中国の女性のイメージとマッチ。20世紀前半の中国の都市に住んでいた女性特有のオシャレで優雅な雰囲気を醸し出している。
旗袍起源于满洲族女性的传统服饰,流行于上个世纪30年代的上海。旗袍优美的线条、时尚的设计、独特的气息,与清新脱俗的中国女性形象十分吻合,酿造出20世纪前半期居住在中国城市的女性所特有的时髦、优雅的气质。



NO.9 お茶と茶芸
NO.9 茶与茶艺
中国のお茶は長い歴史をほこり、その品種も多種多様。中国人はお茶を飲むのが大好きで、その味にもこだわりがある。茶芸とは、字義的には、お茶の品評やお茶を入れるのを鑑賞することで、優雅な環境でお茶を飲むという雰囲気を味わう。
中国茶文化拥有着悠长的历史,且品种多样。中国人非常爱喝茶,对茶的味道很讲究。所谓茶艺,顾名思义,即是对茶的品评、鉴赏倒茶的艺术、在优雅的环境里饮茶、体验茶文化的氛围。
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NO.1 中国画
中国画は、中国特有の毛筆、水墨、顔料などを使って描かれ、特に「意境」(主観的な感情や理念を客観的な事実や景観に融合した表現)を重視する。シンプルな色とタッチだが、色彩豊かな油絵よりも、深みがある。
中国画是指用中国特有的毛笔、水墨、颜料等绘制而成的,非常注重“意境”(即将主观的情感与理念和客观的事实与景观融合起来表现)。朴素的颜色与笔触,与色彩丰富的油画相比,更有深度。



NO.2 青花瓷
さわやかで上品な青花磁には、多種多様な文字や図柄、落款が描かれる。
鲜明、典雅的青花瓷,描绘着多种多样的文字、图案,并附有落款。



NO.3 胡同(フートン)
北京に来る外国人が最も興味を示すのは、高層ビルでも広い道路でもなく、中国らしい雰囲気がただよう細い路地・胡同だ。北京の胡同の起源は、元(1271-1368年)の時代にまでさかのぼり、最も多い時には6000本以上あった。厳密に言うと、南北のやや広い道は「街」と呼ばれ、東西の細い道が「胡同」と呼ばれる。
来到北京的外籍人士,最感兴趣的并不是高楼大厦、宽阔马路,而是弥漫着中国特有气息的、曲径通幽的小胡同。北京胡同起源于元朝(1271-1368年),最多的时候有6000多条。严格来说,南北向稍微大一些的道路称为“街”,而东西向狭长的才是“胡同”。



NO.4 北京ダック
NO.4 北京烤鸭
北京ダックは、世界中で知られ、約600年の歴史を誇る。「世の中で最もおいしい料理」とも言われ、清朝(1644-1912年)には宮廷料理として採用された。
北京烤鸭世界闻名,大约有600年的历史。据说是“世界上最好吃的料理”,在清朝(1644-1912年)被作为宫廷料理。



NO.5 中国カンフー
NO.5 中国功夫
アクション俳優・李小龍(ブルース・リー)や成龍(ジャッキー・チェン)を通して、中国カンフーはアジアで人気となり、その人気はハリウッドにまで波及した。米国各地にも武術学校が数多くあり、中国カンフーを習う外国人も非常に多い。
功夫明星李小龙、成龙的大获成功,使得中国功夫在亚洲赢得了超高人气,甚至传到了好莱坞。美国各地开办了许多武术学校,来学习中国功夫的外国人也非常之多。



NO.6 故宫
北京の人気観光スポット・故宮は、いつでも多くの観光客でにぎわう。友人や家族と共に来る外国人は、故宮で、単なるアートではなく、中国古代建築士が吹きこんだ歴史を体験している。
北京的人气观光景点故宫,总是有许多游客光临,热闹非凡。与朋友、家人一起来华的外国人们,在故宫里体验的不仅仅是艺术的沉淀,更是中国古代建筑师们建立起来的历史宝藏。



NO.7 中国の伝統楽器
NO.7 中国的传统乐器
外国人にとって古筝や二胡、琵琶などは、中国の伝統楽器の代表だ。
对外国人来说,古筝、二胡、琵琶等,是中国传统乐器的代表。



NO.8 チャイナドレス
NO.8 旗袍
チャイナドレスの起源は満州族の女性の伝統衣装。1930年代に上海で流行した。その美しいラインと、オシャレなデザイン、独特の雰囲気は、上品でさわやかな中国の女性のイメージとマッチ。20世紀前半の中国の都市に住んでいた女性特有のオシャレで優雅な雰囲気を醸し出している。
旗袍起源于满洲族女性的传统服饰,流行于上个世纪30年代的上海。旗袍优美的线条、时尚的设计、独特的气息,与清新脱俗的中国女性形象十分吻合,酿造出20世纪前半期居住在中国城市的女性所特有的时髦、优雅的气质。



NO.9 お茶と茶芸
NO.9 茶与茶艺
中国のお茶は長い歴史をほこり、その品種も多種多様。中国人はお茶を飲むのが大好きで、その味にもこだわりがある。茶芸とは、字義的には、お茶の品評やお茶を入れるのを鑑賞することで、優雅な環境でお茶を飲むという雰囲気を味わう。
中国茶文化拥有着悠长的历史,且品种多样。中国人非常爱喝茶,对茶的味道很讲究。所谓茶艺,顾名思义,即是对茶的品评、鉴赏倒茶的艺术、在优雅的环境里饮茶、体验茶文化的氛围。 收起阅读 »

日语短文鉴赏:人世亲情 缘何骤减



 苦楽をともにしてきた老妻が死んで、葬式もすんだ。隣家の奥さんが通りかかって「お寂しゅうなりましたなあ」。「一人になると急に日が長うなりますわい」。つぶやく夫の向こうに瀬戸内の海――。変哲もないシーンながら、映画「東京物語」のラストは何回見ても胸にしみ入る

同甘共苦一路走来的老妻死了,葬礼也办完了。邻居家的太太从家门前过,体恤地搭话道“人走了,冷清啊。”“人一走,这日子就觉得一下子变长了。”喃喃自语的丈夫面前展现的是辽阔的濑户内的海面。尽管是一幅司空见惯的平常场景,可电影“东京故事”的最后一幕每每看来总是那么的沁人心脾。

監督の小津安二郎は「映画ってのは、あと味の勝負だと僕は思ってますよ」と後に語っている。その術に心ふるわせたファンは多かろう。世界的な巨匠の、きょうは誕生日にして命日。生誕から110年、没して50年にあたる

导演小津安二郎日后曾经说过,“电影这东西,我觉得要的就是这回味。”深深地被其拍摄手法所打动的影迷想必不在少数。今天,是这位世界级巨匠的诞辰日也是忌日,诞生110周年,辞世50周年。

作品の多くは、家族や人のつながりを「無常の相」としてとらえる。古き良きものが崩れていく現実が淡々と示される。作詞家の故・阿久悠さんは小津映画を見ながら、家の間取り図を描いたことがあったそうだ

其作品中有很多是描写家庭及人际关系这一“无常之相”的。淡淡地描述着那些古老且优秀的东西逐渐坍塌的现实。据说,已故词作家阿久悠先生看了小津的电影后曾经描画了一幅家庭关系图。

そこでは家族それぞれが、他の家族を見るともなく目の端に入れながら暮らしている。盆栽をいじる父、料理をする母、本を読む妹、グローブに油を塗る弟――。「絆」という語をあまり叫ばずにすんだ時代かもしれない

在那里的每一个家庭成员,虽然并未刻意观察效仿其他的家庭,倒也亦步亦趋地过着大同小异的生活:收拾盆景的父亲、忙着做饭的母亲、读书的妹妹,还有往棒球手套上打油的弟弟。也许,那是一个不必大肆宣扬什么“亲情”的时代。

いま、「孤」という字が社会にのさばる。むろん家族にも地域にも煩わしさや重荷はある。それを嫌って、つながりを断ち切る方向にアクセルを踏みすぎて来なかったか。功と罪を、古い映画は問うているかのようだ

如今,“孤”这个字正在整个社会里蔓延。当然每个家庭每个地区都有各自的烦恼及负担,但是,因为嫌弃这些而猛踩油门朝着断绝亲情的方向飞奔,这么做是不是太过份了?总觉得其中的功罪好像正在接受着这些老电影的质问。

「おれは豆腐屋だから豆腐しか作らない」と言って作風を変えなかった。今ならどんな映画を撮るだろう。その墓は鎌倉の円覚寺にあって、「無」の一文字が刻まれている。

“我是个开豆腐铺的,只会做豆腐”所以作风是无法改变的,不知道要是大师活到今天会拍摄什么样的电影。斯人之墓位于镰仓的圆觉寺,碑上只镌刻着一个字,“无”。
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 苦楽をともにしてきた老妻が死んで、葬式もすんだ。隣家の奥さんが通りかかって「お寂しゅうなりましたなあ」。「一人になると急に日が長うなりますわい」。つぶやく夫の向こうに瀬戸内の海――。変哲もないシーンながら、映画「東京物語」のラストは何回見ても胸にしみ入る

同甘共苦一路走来的老妻死了,葬礼也办完了。邻居家的太太从家门前过,体恤地搭话道“人走了,冷清啊。”“人一走,这日子就觉得一下子变长了。”喃喃自语的丈夫面前展现的是辽阔的濑户内的海面。尽管是一幅司空见惯的平常场景,可电影“东京故事”的最后一幕每每看来总是那么的沁人心脾。

監督の小津安二郎は「映画ってのは、あと味の勝負だと僕は思ってますよ」と後に語っている。その術に心ふるわせたファンは多かろう。世界的な巨匠の、きょうは誕生日にして命日。生誕から110年、没して50年にあたる

导演小津安二郎日后曾经说过,“电影这东西,我觉得要的就是这回味。”深深地被其拍摄手法所打动的影迷想必不在少数。今天,是这位世界级巨匠的诞辰日也是忌日,诞生110周年,辞世50周年。

作品の多くは、家族や人のつながりを「無常の相」としてとらえる。古き良きものが崩れていく現実が淡々と示される。作詞家の故・阿久悠さんは小津映画を見ながら、家の間取り図を描いたことがあったそうだ

其作品中有很多是描写家庭及人际关系这一“无常之相”的。淡淡地描述着那些古老且优秀的东西逐渐坍塌的现实。据说,已故词作家阿久悠先生看了小津的电影后曾经描画了一幅家庭关系图。

そこでは家族それぞれが、他の家族を見るともなく目の端に入れながら暮らしている。盆栽をいじる父、料理をする母、本を読む妹、グローブに油を塗る弟――。「絆」という語をあまり叫ばずにすんだ時代かもしれない

在那里的每一个家庭成员,虽然并未刻意观察效仿其他的家庭,倒也亦步亦趋地过着大同小异的生活:收拾盆景的父亲、忙着做饭的母亲、读书的妹妹,还有往棒球手套上打油的弟弟。也许,那是一个不必大肆宣扬什么“亲情”的时代。

いま、「孤」という字が社会にのさばる。むろん家族にも地域にも煩わしさや重荷はある。それを嫌って、つながりを断ち切る方向にアクセルを踏みすぎて来なかったか。功と罪を、古い映画は問うているかのようだ

如今,“孤”这个字正在整个社会里蔓延。当然每个家庭每个地区都有各自的烦恼及负担,但是,因为嫌弃这些而猛踩油门朝着断绝亲情的方向飞奔,这么做是不是太过份了?总觉得其中的功罪好像正在接受着这些老电影的质问。

「おれは豆腐屋だから豆腐しか作らない」と言って作風を変えなかった。今ならどんな映画を撮るだろう。その墓は鎌倉の円覚寺にあって、「無」の一文字が刻まれている。

“我是个开豆腐铺的,只会做豆腐”所以作风是无法改变的,不知道要是大师活到今天会拍摄什么样的电影。斯人之墓位于镰仓的圆觉寺,碑上只镌刻着一个字,“无”。
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